《1516》 「ファミリーカンファレンス」の時代 [未分類]

「生かされなかったリビングウイル」を検証しながら
気がついたことは、医師と患者の想いのすれ違いです。
両者のコミュニケーション不足が、不満の根底でした。

医師のコミュニケーションスキルは高くない場合が多い。
昔はそれでも「お医者さま」だったので問題は無かった。
しかし現代では大きな問題になるケースが続出しています。

私の外来ではセカンドオピニオンはやっていないのですが、
それを求める方が遠くからやって来られます。
胃ろう、抗がん剤、施設入所などに関する相談が主です。

私にはいろんな想いを吐き出すのですが、まずは主治医に
そうするようにアドバイスしますが皆さん同じことを言う。
「主治医は忙しくて聞いてもらえません」と。

「私も充分忙しいんだけどなあ」と心の中で思います。
どうして診たこともない患者さんにアドバイスできようか。
まさか占い師でもあるまいし。

しかし遠くから沢山の資料を抱えて必死で来られるので
そんな冷たいことも言えず、一応、ちゃんと聞いて答えます。
その間、他の患者さんは待ってもらうので心苦しいのですが。

「生かされなかったリビングウイル」の第1例
聞きながら、コミュニケーションの不足が大きかった。
第2例の胃ろうのケースは、医師の見解も大きいと思った。

「誤嚥するかもしれないから食べさせない。だから胃ろう」
が、病院の若い先生の常識です。
どこでそんなことを習ったのか知りませんが、全国的にそう。

私の本を読んで欲しいのですが、医者はまず読みません。
「生きることは食べること」なので摂食支援は大切です。
しかし多くの医師は「食べさせずに、胃ろう」なのです。

医師の保身もあるかもしれません。

もし食べさせて誤嚥性肺炎で死亡したら訴えられるかもしれない。
介護裁判の判例では、それで施設側が負けている判例もあります。
だからとりあえず、訴えられない方法=胃ろうを選択するのです。

主治医に「死んでも文句を言わないから食べさせることに挑戦
して欲しい」とそのままの気持ちを言えばいいのではないか。
私は、20数人、そのような患者さんを診てきました。

残念ながら、4人は、1カ月以内に亡くなりました。
衰弱していたので、食べていなくても亡くなった可能性が充分ある。
家族は、少しでも食べてから旅立ったことにみなさん大満足です。

それぞれ、いろんな話し合いをしました。
あらゆる可能性を想定しました。
良くなる場合も、悪くなる場合も。

嚥下評価の専門家の訪問診療や意見も求めた上での判断です。
いくら嚥下評価をしても、最終判断は話し合いです。
すなわちやはり、コミュニケーションなのです。

機械のようにスイッチを押すか押さないかではありません。
どのような方向に医療を進めるのかは、話し合いで決めます。
医療には、納得がいくまでの話し合いが不可欠です。

家族との話し合いは「ファミリーカンファレンス」と言います。
医師と家族だけではなく、看護師さんや介護士さんや
友人や親しいボランティアさんも入ってみんなで話し合います。

医師側は話し合いをしたつもりでも、家族側は話し合いをしたという
感覚のないまま、事態が進むことが実に多いように思います。
その結果、セカンドオピニオンというボランティアが必要に。

世の中には、訴追を極端に恐れる医師も沢山います。
そのためには、法的な担保が患者の人権を護ります。
法案は、医師の免責ではなく、医師の罰則規定と報道すべきです。

「医師の免責」と謳うと、メデイアは「医者のための法律」と
書きますが、どこまでも患者さんの権利を護るための法律です。
そんな後ろ楯があれば話し合いが前向きに生かされるはずです。

今日も自民党・党本部では、患者さんのリビングウイルを担保する
ための法案のプロジェクトチームが夕方に検討会を開かれます。
国民の代表である国会議員さんの活発な議論が続いています。

「生かされなかったリビングウイル」から2つのことが見えた。
ひとつは、医師と患者のコミュニケーション不足。
そしてリビングウイルの法的担保の国民的議論の必要性です。