《1580》 その人の人生、背景を知ること~EBMよりNBM [未分類]

EBMとNBMという言葉を御存知ですか?
EBM(Evidence Based Medicine)とはエビデンスに基づいた医療のこと。
すなわち医学論文の結論を重視した医療を行うことです。

医学論文とは医学の学術雑誌に投稿して審査の結果、掲載が許可されたもの。
一口に医学雑誌といってもピンキリですし、
ひとつの医学論文である命題が解決することはありません。

沢山の論文の結果だけを集計して解析することをメタ解析といいますが、
そうした総合的評価を経てより信頼性の高いデータになります。

しかしSTAP細胞事件やディオバン事件に象徴されるように、
科学論文そのものに対する信頼性が最近、大きく揺らいでいます。

以前も書きましたがエビデンスとは、95%以上の確率で正しいと判断されること。
裏を返せば5%は間違っている可能性や5%の例外があるのかもしれないのです。

一方、NBM(Narrative Based Medicine)とは、「物語」に基づく医療です。
人にも病気にも必ず物語があります。
本人も気がついてないことで病気と強い因果関係があるものが沢山あります。

ゆっくりきちんと問診すればそれだけで診断がついてしまうことが多いです。
そうした問診は、エビデンスを適応するための準備だと思います。
大昔は、経験しかありませんでした。
Experience based medicine というもう一つのEBMしか無かった。

しかしその前提として詳細な問診はあり、その時代でもNBMだったのです。
本来は、EBMとは、NBMも包含する概念なのですが、
対立概念のように語られることが多いのが残念だといつも思っています。

さて、認知症診療ほど、EBMとNBMの両方が必要な分野は無いのではと思います。
他の病気ではもちろんですが、認知症はまだまだ分っていないことがあまりも多い分野で、
私には未開の原野のように見えます。

そもそも医療に限らず現代社会は、何かとEBMと似ているところが多いと感じます。
データ重視、エビデンス重視で意思決定されます。
医療・看護・介護だけではなく政治や経済や教育もエビデンスの時代です。

エビデンスがないとその世界で認めてもらえず、出世もできない時代です。
大学病院の医局制度においては、今も昔も本質的にはEBM至上主義です。
患者さん側からの評価など一切関係ありません。

エビデンスが掲載された医学雑誌のインパクトファクターですべての評価が決まります。
週刊誌や一般書籍は、学術という世界の外ですので何百万部、何千万部売れようが、
それだけでは、たとえO.01%でもエビデンスには成り得ないことを知ってください。

一般の方は、書店に多く医学関連書が並んでいるものがエビデンスだと
勘違いしている方が多くいます。
あれはただの、読み物です。

エビデンスとはサイエンスを語るための言語であり、国内外の医学雑誌への
掲載を経ないとエビデンスに成り得ません。

しかしある薬のデータの責任者や審査をする側が、
たとえばお薬の製薬会社から多額の研究資金を提供されていたとしましょう。
法的に何も問題なくても、どうしてもデータの解析に大なり小なりえこひいきが入る可能性があります。

それを利益相反といいますが、これは研究者の倫理の問題です。
この利益相反を巡って今後、大きな議論がなされるでしょう。
利益相反があるので、ディオバンのような事件が起こるのです

さて、現代日本において認知症の人に必要なものは、
まず生きてきた歴史や人生観に寄り添ってくれる主治医の存在です。

認知症は先進国の病気であり、そこには医療・介護などの社会保障制度があるので
制度にのせるためには、どうしても主治医が必要なのです。
主治医の仕事とは、まず本人の歩んできた人生、家族との関係などの背景を深く知ること。

そして現在、何に悩んでいるのか、どんな生活をしているのかを具体的に書きだす。
そして周囲は何に困っているのかを把握したうえで病態を少しずつ理解していきます。

それはまさしくNBMなのですが、現代医療では軽視されがちです。
なぜなら医学が臓器別縦割りに向かって現在も分化しているからです。

わかりやすく言えば、EBM一辺倒の医療体系のなかで、
NBMは軽視されがちだし、第一、 多くの医療者に理解されにくい考え方です。

なぜなら、その臓器だけを見ていれば充分ご飯を食べられるのが専門医の世界です。
内視鏡をして胃潰瘍があればPPIという胃薬を出してからピロリー菌の除菌をすれば
それで仕事は満点です。

糖尿病があろうと、膵臓がんが隠れていようと、認知症で周囲が困っていようと
消化器病の専門医の「管轄外」なのです。

EBMとNBMのどちらを重視するのか? と聞かれたら、どちらも重視します、
としか応えるしかできません。
特に認知症においては、NBMがほとんどでしょう。

しかし専門医はEBMに偏りがち。
一方、開業医はNBMで、同じ患者さんを診ても診ているところが全然違う場合が多くあります。
このように認知症という状態は、絶対的な状態ではなく相対的なものです。

よく「コップに水が半分入っているのを見て、
ああ半分しか入っていないと見る人と、
まだ半分もあるじゃないかと見る人がいる」と言われますよね。

まさにこの世界です。

半分しかないからEBMで攻めて水を増やそうとする専門医がいれば、
反対に「半分も残っているからいいじゃないか、充分じゃないか」という町医者もいるのです。
といいながらも、サジ加減でお薬も使います。

この「しか」と「も」の差は大きいと思います。
EBMとNBMの世界は、こうした差にもなってきます。

EBMやNBMについて語る上で、現場の医療人として強く思うのは、
施設に入ってしまった瞬間にNBMが消されてしまうことが多いことです。

家で生活していた時は、昔、商売をやって踊りもやって子育てと姑の介護に苦労したおばあちゃんであったのが、
施設に入った瞬間に単なる「入所者」の一人に変化してしまうことです。

介護スタッフのカルテにも、病名やお薬や昨日のバイタルサインは詳しく書かれていても、
肝心のナラティブの部分がほとんど書かていなかったり
スタッフも誰も気にとめていない時があり残念です。

生活が無くなり、歴史が無くなれば何が残るのか?
よほど工夫しないと周辺症状は出まくりになります。

施設こそ、EBMよりNBMなのですが現実にはなかなか難しいことです。

施設に入った人こそ、もっとその人が生きてきた歴史、
人生を知った上での認知症ケアを提供したいものです。

PS)
昨日は、台湾の仁徳医専に行き、死亡体験カリキュラムを受講。
予想を遥かに超えるすごいところで、一同、感動しました。

改めてご紹介します。
今日はこれから新幹線に乗り、台中の南にあるホスピスに行き、
地域の緩和ケア医と意見交換したり講演もしたりします。

台湾は晴れていて、気温も大阪より低い。
爽やかな気候の中、美味しい食事で鋭気を養っています。