《1582》 患者よ、ボケを怖がるな! [未分類]

医師になった30年前には、まさか30年後にこうして認知症について書く日がくるとは
夢にも思いませんでした。

しかし現実に56歳のオッサンになり、自分の記憶力も怪しくなってきた今、
認知症に対する素直な想いを毎日、書いてみました。

20年あまり町医者をしていますと、馴染みの患者さんがボケて行く様を
どうしても診ることになります。
そして自分自身も間違いなく現在進行形でボケていきます。

遅いか早いかの違いはありますが、
20年というスパンで定点で観察研究をしているのと同じことです。

あれだけ元気でバリバリ働いていた60歳代の人が、気がつけば80歳代半ばになり、
立派に(?)ボケて要介護になっていく様を克明に見せて頂く立場にいます。
それこそ何百例も診てきました。ゆっくり、ゆっくりボケていきます。

特に糖尿病と喫煙が要注意です。
そのような男性が怒りっぽくなれば、まず認知症です。
女性だと通院間隔が開いたり、薬が足りないなどと騒ぎだしたらこれまた認知症。

それでも独力か家族に連れられてクリニックに通院して頂けるので
認知症の経過もよく分かるのです。これも不思議なご縁です。

最初はみなさまどなたも、外来通院からです。
認知症かな? と気がついて、5年後には立派なボケになります。
そして10年後には在宅療養になる方が必ず出てきます。

かくして外来でも在宅でも、来る日も来る日もボケと対峙しています。

がんの場合は「早期発見・早期治療」は本当です。
一方、認知症の場合、「早期発見・早期治療」は果たして成立するのでしょうか。

「早期診断・早期絶望」という意見があるように、たとえ早期に診断できたとしても
必ずしもそれが本人にとってプラスに結びつかないことが現実にあります。

先走りした遠くの長男が、目が飛び出るような高い老人ホームを探してきて
泣く泣く入れられることはよくあります。
長男さんは、「いい親孝行をした」とどこか自慢げですが……。

昔も認知症の人はその辺にいたような記憶があります。
私が子供の時にも、広場の片隅でボケている老人を見たことがあります。
ただ「ちょっとボケている」ので、近所のみんなが何となく見守りをしていたのでしょう。

もし長屋にボケ老人が一人くらいいても、今のような大騒ぎにはならなかったはずです。
それは路地裏があったからでしょう。
そこはボケ老人が、くつろげる居場所でした。

しかし今は都会の真ん中では、もはや路地裏が無くなり、
ボケ老人がボーっと座る場所も無くなってしまいました。
都市化と認知症の人の顕在化は、どこか呼応しているように感じてなりません。

わざわざ見守りなどと言わなくても、
自然に見守れたのが昔の日本の長屋文化だったはずです。

認知症が増えているのは本当だと思いますが、じゃあ昔はそれほどいなかったのか?
と聞かれたら、それなりにいたはずでしょう。

欧米人は、日本人より認知症を格段に怖がります。
それは自分が自分で無くなると感じるからでしょう。
自己決定できるのが個人である、という考えだからです。

もし自己決定できなくなれば、もはや自分でもなければ人間でもない。
そんな感じでしょうか。
しかし歳をとってのボケとは赤ちゃん返りなので、自己決定できなくなって当然です。

自己決定できないことは、決して人間で無くなる訳ではありません。
もしそんな考えなら間違っていると思います。
人間は自己決定できない姿で生まれて、また自己決定できない姿に還って去るのです。

一方、日本人は「自己決定しない文化」です。
人生の最終段階の医療においてさえも自己決定している人は
僅か数%しかいないのが現実です。

自分の命さえ人任せなのです。
それって、素晴らしい!?

では誰が決定しているのか? と言えば、それは多くが「家族」です。
ちなみに残りは「医者」が決定しています。
「家族」の権限が極めて高いのが日本の大きな特徴です。

たとえボケても家族がちゃんとしてくれるという安心感が、
心のどこかにあるのが日本人の深層心理なのでしょう。
白か黒かどちらかに決めず、敢えて曖昧にしておく。

それが美徳とさえされるのが「和」の文化。
もちろんこうした家族による代理制度は、当然いい面と悪い面があります。
これからの日本社会は、この「家族代理人」が大きな課題であると思います。

では認知症になった時、欧米と日本とでは、どちらが幸せなのでしょうか?
私は日本だと思います。
自己決定しない文化である日本の方が、認知症を許容できる下地があるように思います。

まず、健康保険でコウノメソッドが受けられます。
ただ保険の規則が認知症医療の個別性を考慮していない点だけでも
早急に改められるべきですね。

もしがんの痛みに「モルヒネは5mgで開始して必ず20mgまで増量すること」
なんて縛りがあったらオカシイのと同じことだと思います。
そこで河野和彦医師は、現在進行形で認知症の教科書を塗り替えておられます。

お金をかけずに主に既存薬で患者さんのQOLを高める様々な挑戦をされています。
河野先生が言われる「治す」とは、現在より良くすることができる、ことなのです。

20点が50点でもいいし、
30点が80点になってもいい。

医療の力を追求しているのです。
完全とはいかなくても、簡単にできることが沢山ありそれを堀りおこしておられる。

そして介護の世界でも、パーソン・センタード・ケアやユマニチュードが
大人気だということなので、これから大きく変わりそうな予感がします。

そして福岡県大牟田市に代表される「徘徊しても大丈夫なまち造り」が
全国各地に広がっていることは、認知症ケアにとって大きな希望です。

さらに西宮の「NPO法人つどい場さくらちゃん」のような介護者を支える
ボランテイア団体や認知症の家族のための「つどい場」も全国各地に広がっています。

機は年々、熟してきているのです。

私は、認知症になるまで長生きしたいです。
男性にとっては、そこに至るのは大変なハードルなのです。
大半はその前に、死にますから。

冗談はさておき、医療も介護もこの2、3年でこれだけ環境が整備されました。
そしてこれまで書いてきたように「放牧で良くなった症例」が沢山あるのです。

コウノメソッドをよく勉強して、困っていることは何とかして差し上げましょう。
一方、「治さなくてもよい」ものは「放置」でも全然問題ないと、私は考えます。

「医原病」や「介原病」が、想像以上にたくさんあるが、見逃されているということです。
そんな勇気ある医師が続々と声を出せば、世の中を変えていけるのです。

もうおわかりだと思いますが、認知症をそれほど怖がらなくていいのです。
たとえワーワー言っていても、薬やケアで何とかなります。
慌てて施設にいれる必要はありません。

もしいれるのであれば、ちゃんと調べてからでないと後悔します。

「患者よ、ボケを怖がるな!」
「患者よ、ボケと闘うな!」
「患者よ、ボケはとめられる!」と、言いたい気分なのです。