《1583》 (その1)要介護「松・竹・梅」 [未分類]

しばらく真面目に書いてきたので、今度は数回、不真面目に書いてみます。

以下は全て私の妄想であり、科学的な根拠もなにも全くありません。町医者の勝手な駄文として適当に読み流していただければ幸いです。

2020年冬、2回目の東京オリンピックも無事終わった。

この年、私は63歳になっていた。頭は残念ながらかなり薄くなり、「初老」という言葉が似会う風体になっていた。

年2回集まることになっている同窓会では、各界で活躍していた高校の同級生たちが定年後のプランで盛り上がっていた。

天下りする者、再就職先がある学者、夫婦ともどもしばらく東南アジアにプチ移住すると言い出した者、蕎麦打ちに打ち込む宣言をする者、まだまだ在宅医療で頑張るぞという町医者など、思い思いの第二の人生のプランを語り合っていた。

そんな宴会の中、ずっと寡黙に飲んでいた田中君(仮名)が重い口を開いた。

「みんないいなあ、俺なんて認知症の両親の介護でそれどころじゃないよ」

と愚痴った。

「母親は68歳くらいからボケ始めて20年になる。ずっと介護をしてきた父親も80ぐらいからついにボケはじめて、いつの間にかお袋を追い越して寝たきりになったよ……」

88歳の要介護「竹」の母親と、90歳の要介護「松」の父親の在宅介護のため、田中は定年を待てずに58歳で早期退職したという。それ以来、奥さんと2人でずっと両親の在宅介護を続けているとのこと。

田中の実家は、庄屋の流れでちょっとした家系であることはみんな知っていた。代々、在宅医療で年寄りを世話してきた旧家なので、田中がエリートサラリーマンの地位をあっさり捨てたこともみんな理解できた。

無邪気な定年後プランに花を咲かせていた一同は、ちょっとしんみりして田中の愚痴に耳を傾けることになった。

◇                   ◇

2020年には高齢化率は30%にも達し、百寿者が全国で10万人を超えていた。もはや人生80年ではなく、「人生90年」と言われ始めていた。

認知症人口は2014年の800万人(予備群を含む)を遥かに凌ぐ数字に発達していた。なんと1500万人であり、これは高齢者の4割に達していた。このまま行くと5割を超えそうな勢いだ。

しかし、もし本当に越えたら、認知症でない者のほうが少数派になり、どちらが病気なのか分からなくなる一歩手前の数字だ。

要介護者が増えすぎたため介護認定調査や介護認定審査会が追い付かなくなり、経済的な理由もあり介護認定手順は大幅に簡略化。2014年当時は、7段階区分だった介護区分は、「松・竹・梅」の3区分に減っていた。

役所の調査員が家に調査に来て、約100の調査項目を手早く小一時間で小さな機械に打ち込むと、その場で自動的に「松・竹・梅」の3区分の介護判定が出てプリントアウトされた。

その決定に不服がある時のみ介護認定不服審査会にかけられるが、そんな例は少なかった。あまりに要介護者数が多すぎて国はそうせざるを得なかったのだ。

介護保険料はどの自治体も1万円を超えていた。もっとも国民健康保険料も介護保険料も払えない非保険者が3割近くに達していた。

最重度の介護区分「松」での1カ月の介護給付額は約30万円。要介護5なら36万円を使えた2014年当時は、今となってはいい思い出だ。現在、その30万円はすべてのサービスがまとめられた「パック料金」に変わっていた。

2014年当時は、介護事業所に所属するケアマネージャーが、自分の所属する株式会社に有利になるケアプランを(利用者に悪いと少しは思いながらも)作っていた。

あの「出来高制の縦割り介護」は、今振り返れば本当にいい思い出だ。あれは、まさに「介護バブル」だったのだ。

人口45万人のA市は、1ブロックあたり2~3万人程度の15ほどの小ブロックに分けられ、そのブロックにひとつある地域包括支援センターのケアマネージャーたちが「パック料金のなかでのケアプラン作成」を担っていた。

といっても、その作業内容は『A市独自に作られた約20のケアプランのどれを選ぶのか』というものに変容していた。ケアマネさんの仕事はケアプランを組み立てることではなく、『その人らしい生活を支えるのに相応しいプランをコーディネートすること』になっていた。

もはや昔のように、毎日買い物をしてきて台所で料理を作ってくれるお手伝いさん……いやホームヘルパーさんは街にはもう一人もいない。

食事は、みんな平均500円ぐらいの宅配弁当だ。ブロックによっては、小学校の給食室で、そこが空く午後にシルバー人材派遣センターに所属する高齢者が在宅患者さん向けの食事を作っていた。

各戸に配るのは民生委員を中心とした地域のボランテイアたちが中心だ。2000年以前の町内のドブ掃除当番は、2020年には宅配弁当当番に変わっていた。

たとえ要介護「松」であっても、すべてがマルメの30万円の範囲内なのだ。デイサービスもショートステイも介護用品レンタルも訪問入浴も、すべてやってもこの30万円の枠内に収めなければならない。

いや、収める以外に道はないのだ。まるで昔の遠足のおやつのように……。

介護業者の儲けは減った。しかし他に道は無いことはみんな理解していた。明日は我が身、という気持ちでシニア世代も在宅療養支援に駆り出された。『家でじっとしているより認知症介護で体を動かしている方がボケにくい』という論文が、有名な国際医学雑誌に掲載された影響も大きかった。

2014年当時に比べて特に大きく変わったことは、各ブロックに深夜当番のヘルパー2人が、当直として地域包括支援センターに待機していることだった。

深夜の緊急コールには、この当直ヘルパーがまず対応し、手に負えない場合だけ訪問看護師や在宅主治医に連絡するシステムになっていた。消防隊や警察、そして葬儀屋さんとも定期的な勉強会が開かれ、顔の見える連携が構築されていた。

『こうした大認知症時代には、かえってこの方が合理的だ』という見方が、昨年あたりからオリンピックムードと相まってまたたく間に全国に広がっていた。

まるで人口2~3万人の中学校区の街が、そのままひとつの介護施設のように見えた。こうしたシステムを「地域包括ケアシステム」と呼ぶことは、小学校5、6年生の「健康」という科目の授業で教えるので、誰でも知っていた。

大認知症時代を乗り切る唯一の方法だと教えられるので、もはやこれが当たり前という空気に日本中が変わってきていた。

あるブロックでは、特養とグループホームそれぞれを運営する社会福祉法人が「非営利型ホールデイングズ法人」として経営面で結束していた。なかには、医療法人と社会福祉法人が「非営利型ホールデイングズ法人」で手を結んでいるケースもある。

介護保険の取りあいでは無く、分けあいに変わっていた。医療も介護も財源が限られているので、介護業者は儲けを諦め、安定・存続志向に変わっていた。

それは地域の開業医も同じだった。

地域の病院と開業医は同じ電子カルテを使っているので、緊急入院の際の紹介状作成も楽だった。正月やお盆休みには、地域の基幹病院の若い医師が当番で代診をしてくれたが、これは助かった。病院と同じ電子カルテなので壁は無いし、第一、違った「客相」を診ることは大変勉強になった。

電子カルテの一部は、地域包括支援センターや介護事業者も見ることができた。もちろん患者自身や家族も、パスワードを入力すれば銀行の預金口座を見るように読むことができた。

もはや他に手だてがないことにみんな納得していた。はじめは反対していた医師会も、背に腹は代えられないと賛成に転じた。『国民皆保険制度や介護保険制度が破綻するよりはまだマシ』だと考えたのは、介護業者も同じだった。

10年後の2030年には年間170万人が死ぬことになる。たった10年後に多死社会はピークを迎えることがすでに明らかなのだ。

だから病院や施設を新設する医療法人や社会福祉法人は、もはや無かった。無いどころか、公立病院や中小病院は全国的に統廃合の嵐となった。

小さな病院は介護施設への転換を余儀なくされた。小規模病院の経営者たちは「院長」から「施設長」に肩書きが変わることに当初は強く抵抗した。しかし認知症の増加が著しい現実を考えると、「名を捨てて実を取る」と考え直す医者が増えた。

◇                   ◇

さて、田中の両親の実際の在宅療養の様子を聞いてみた。意外なことに、渋い顔をして話す割には、結構、楽しそうだった。

(続く)