《1626》 阪神大震災と東日本大震災 [未分類]

黒田さんとの出会いは、兵庫県主催の命と生き甲斐プロジェクトの
公開プレゼンテーションだったように記憶しています。
昼休みに、神戸まで出て行き、市民イベントのプレゼンをしました。

その審査員をしていたのが、黒田さんだったと記憶します。
あのクレオパトラのような独特の髪型は、一度見たら忘れません。
それは私もみなさんも同じでしょう。

間もなく日本ホスピス在宅ケア研究会という組織と出会いました。
彼女が、誰よりもリーダーシップを取っているように見えました。
たくさんの研究会やイベントや会議で様々な勉強をさせていただきました。

黒田さんは、阪神大震災が人生の契機になりました。
実は私も同じで、病院を飛び出して開業しました。
黒田さんも病院を出て、仮設住宅を回るボランティアになりました。

私が仮設住宅というものを生まれて初めて見たのが1995年。
私も開業後、いくつかの仮設住宅の中の人を診て回りました。
黒田さんはたくさんの被災者に、圧倒的に長い時間をかけて関わりました。

彼女は、災害看護というものに目覚めたようでした。
「今度、災害看護学会をやるのよ。広告出してね!」
「なに、その聞き慣れない学会は?」

そんな風に、今思い返せば、自分が全く知らない世界に
黒田さんは私を続々と引き寄せてくれました。
そして気がつけば、日ホスの役員も拝命していました。

そして忘れもしない3.11が、彼女にも次の大きな転機になりました。
3月12、13日は、大阪で日本在宅医学会が開催されていました。
3月12日の夜、黒田さんからのコールで携帯電話が鳴りました。

「長尾先生、一ノ関ってどこにあるか知っている?
福島が通れないから新潟から仙台に入ろうとしているんやけど
どの道を通っていいのかわからないから、教えてくれない?」と。

私は学会の司会という大役を命じられ、出演者が来阪していたので
その時は、大阪にいなければいけない立場で歯ぎしりをしていました。
あの夜、黒田さんと仲間たちは、夜を徹して被災地を目指していました。

「長尾先生、今、気仙沼にいるの。体育館で寝泊まりしているの」
その後、黒田さんから何度も何度もそのような電話がありました。
私も遅ればせながら、ゴールデンウイークに被災地に入りました。

いつしか黒田さんは、仮設住宅にも関わるようになっておられました。
気仙沼の面瀬中学の校庭にある仮設住宅の集会所を拠点にするとの電話。
「忙しいのよ。やることがいっぱいある。時間を作って来てちょうだい」

そして3.11の年の大晦日に、また黒田さんから電話がありました。
「長尾先生、暇でしょ。明日、気仙沼まで来てちょうだい!」
ほんとは、全然、暇ではありませんでした。

しかしボランティアで寝泊まりしている学生と話すうち、気が変わりました。
「じゃあ、明日行きます!」と気がついたら、そんな返事をしていました。
明日といっても、元日です。

車で伊丹空港まで行きました。
しかし仙台行きの飛行機に、1分違いで乗れませんでした。
空港内の喫茶店で時間をつぶしていたら、ある施設から電話が入りました。

老衰の方が旅立たれたとの連絡でした。
ここからは、「平穏死・10の条件」に書かせていただいたとおりです。
旅立ったおばあちゃんが、私を昼の飛行機に乗せなかったようです。

結局、夕方の便で仙台空港に着きました。
レンタカーブースに飛び込むと、1台だけ車が空いていました。
その車に乗り込んで、気仙沼まで2時間ばかり、ブッ飛ばしました。

石巻、そして真っ暗な南三陸町を抜けて気仙沼の面瀬中学に着いた。
果たしてそこには、可愛い男子大学生たちと黒田さんがいました。
深夜までいろんな話をしました。

翌1月2日、正月なので、私は彼らを風呂に連れて行きました。
黒田さんも連れて行こうとしたら最初、彼女は強く断りました。
「そんな堅いこと言わんと、な、正月やんか」と説得し渋々承諾。

「本当はボランティアの分際で風呂なんか入ったらアカン」と呟く
後部座席の黒田さんを「なんて厳しい人だろう」と思っていました。
実際、彼女は「ボランティアのマナー」にもの凄く厳しい人でした。

「ボランティアしてあげるじゃないの。させていただくのよ」と
耳にタコができるくらい聞かされました。
ボランティアの大学生たちは、厳しい黒田さんにみんなついていきました。

1月2日は、他の仮設住宅や地域の被災住宅や市営住宅も回りました。
生活保護の人、薬物依存症やアルコール依存症の人のお宅も回りました。
彼女は一人ひとりの「物語」を全部知っていて、詳しく教えてくれました。

1月3日は、仮設住宅の人を集めて講演もさせられました。
たしか、高血圧についての話をしたように記憶しています。
とにかく黒田さんは「生活を見なくちゃ」と1日中、言っていました。

それから1年、そして2年が経ちましたが黒田さんと仲間の看護師さん
たちは、その後も継続して、気仙沼で保健活動を続けてこられました。
「気仙沼はまだまだ大変なのよ」と、いつ会っても言われていました。

阪神大震災と東日本大震災が、黒田さんの生き方を大きく変えました。
その間に中国の地震や中越の地震もあり、活躍が報じられていました。
黒田さんの顔を想うと、「災害ボランティア」という言葉が出てきます。