《1729》 誰が転送作業を進めたか [未分類]

私は現在、30冊以上の本を出版していますが、記念すべき第1冊目は「町医者冥利」という本です。私の原点とも言える記録です。

この本の最後の方に、今から19年前の1996年に兵庫県相生市で話をした講演録が掲載されています。

本が絶版になっているため、現在では読むことは困難だと思います。数日間にわたり、この講演録を分割してご紹介します。

19年前の講演録ですが、現在となにも変わっていません。悲しむべきか。喜ぶべきか、よく分かりませんが、とにかく数回に分けてご紹介します。

約20年前の文章が、誰かの役に立てば幸いです。

(編集部注 : 一部の表記などをあらためています)

誰が転送作業を進めたか

そういった状況のまま夜になりまして、その時点で医者は9割ぐらい、看護師さんは7割ぐらい出勤できていましたけれども、もちろん帰ることはできません。市民病院ということで続々と患者さんは集まってきますので、徹夜で仕事を続けました。

言うまでもないことかもしれませんが、ほとんどの職員は被災者でもあったのです。公務員だから当然と言えば当然かもしれませんけれども、あの状況のなか、自分の家や家族はほったらかして職場に駆けつけ、いつ終わるともあてのない仕事を続けることはつらいことでした。まだ激しい余震が続いていましたし、この先どうなるか全くわからない不安定な状況の中で、今思えば病院のスタッフ達は本当によく頑張ったと思います。

病院の入院患者は震災直前は200人弱でしたが、震災後はどんどん増え、一時期は1000人近くまで増え、病院のキャパシティをはるかに超えてしまいました。正規の病室に入れる人は少数で、ほとんどの人が廊下とか、外来の待合室とか、薬の待合室とか、リハビリの部屋、そういう所に溢れ返り、病院というより避難所の様相でした。外来の長椅子はみんな患者ベッドに変身しました。震災以前から入院されている方で比較的元気な方にはベッドを譲っていただき、床で寝てもらいました。暖房も全くない状態ですから、少々元気な患者さんは、こんな所にいたら死んでしまうと言って逃げて帰りました。

その状況の中、我々医師は各病棟ごとに持ち場を決め、自分の持ち場の中で、とにかく目の前にいる人から治療していきました。

印象に残っているのは、寝転がっている人に「どうですか?」と問いかけても、「私よりも悪い人がたくさんおられるようですから、そっちを先に診てください」と遠慮される人が結構多くいたことです。病院に一応入院しているといっても、ただ寝泊りしているだけのような人もいて、震災後数日たっても、その間に看護師、医者が一回も診ていなくて、一週間ぐらい後にようやく腕が痛いと訴えるのでレントゲンをとったら、どうやら骨折しているということで慌てて整形外科の先生を呼んで治療した、そのぐらい遠慮深い人もおられました。

通常、病院にはカルテというものがありますが、あの状況下では正規のカルテを作る余裕はなく、紙切れに名前だけ書いて、特に生き埋めになった方では、6時間生き埋めになったとか、12時間生き埋めになったとか、そういう情報だけを書いて枕元に置いただけの人も震災当初は結構いました。

掘り起こされ病院に運ばれて点滴で少し元気になったように見えても、しばらくすると容態が急変する人がいることに気付きました。中にはそのまま亡くなった方もおられます。

それはクラッシュ症候群と言い、筋肉が圧迫されて挫減し、その筋肉から有毒な物質が出て全身を巡り、腎不全となり死んでしまう――震災で特に有名になりましたけれども――そのクラッシュ症候群の知識はほとんどありませんでしたが、たまたまボランティアで芦屋病院へ駆けつけてくださった千里救命救急センターの所長先生が、真っ先にクラッシュ症候群のことを教えてくれました。

このクラッシュ症候群は非常に死亡率が高く、早急に人工透析が必要な病態です。しかし芦屋病院は元来、人工透析の設備はありません。電気はすぐに使えましたが、水道、ガス、暖房は使えません。レントゲン検査も血液検査もできません。薬も、ものによっては当日中に底をついた状況でした。食料も備蓄が全くない状態でした。つまり最初から病院としての機能は絶たれていたわけです。すぐに患者を転送せねば、もっと大変なことになるということは誰の目にも明らかでした。

我々は震災当日の夜になって、どのようにしてクラッシュ症候群などの重症患者を転送するかと本格的に考えました。しかし当初は、周辺地域の被害状況に関する情報はほとんどありませんでした。大阪方面は被害が小さいと聞き、大阪の病院に一生懸命連絡をとりましたが、電話が思うように通じませんでした。

一方、芦屋市には救急車がたしか2台しかなく、1台の救急車が出て行くと渋滞のため6時間くらい経過しないと帰ってこられない状況でした。たくさん転送を要する患者さんはいるんですけれど、うまく転送が進まない状態でした。

深夜になっても重症患者さんが溜まって事態は混乱するばかりで、疲労の中で翌朝を迎えようとしていました。その時の気分は、飛行機が海に不時着して、岸はすぐそこに見えていて、そこまで行けば助かるんだけれども、そこに負傷者を運んで行くボートがないといった状況でした。

その時です。朝の4時頃、大阪市医療センターから、「今からドクターカー(医者を乗せた救急車)を寄越す」との連絡が入りました。すると5時頃、白衣を着た救急医が病棟まで来てくれ、我々にこう言いました。

「先生、何人でも無条件に患者を受け入れますので、どんどん送ってください」

普段病院というのは、なかなか転送患者を受け付けてもらえません。しかし、この時ばかり向こうから勝手にやって来てくれて、「無条件に」と言ってくれました。医者が医者にこういうふうに言うのも変ですが、

「神様が来てくれた!」

本当にそう思いました。

(続く)