《1848》 抗がん剤治療はいつまで続くのか? [未分類]

皆さまは、台風の被害は大丈夫だったでしょうか?
私は夜もずぶ濡れになりながら往診をしていました。

3日間、ほとんど寝る暇がなく、働いています。
寝ようと思っても、在宅患者さんからの電話が次々とかかって来るのです。

24時間365日体制は、辛い時には辛いものです。
しかし患者さんのがんとの闘いは、比べ物にならない位辛いものです。

今井雅之さんの会見を見ながら書いていますが、それでも頑張っておられます。
抗がん剤治療を受けているそうですが、いつまで続けられるのでしょうか?

今日は抗がん剤治療がいつまで続くのか? について考えてみましょう。
がんが治るまで抗がん剤治療が続く? それは、通常ありません。

そもそも「がんの完治」とはなんなのか?
完治しないのであれば「最初からやらない」という選択肢もあるのではないか。

実は抗がん剤の“やめどき”は、専門医であってもよく分からないのが現実です。
私は患者さんから“やめどき”を言い出すことを、提唱しているものです。

ポイント

  • 抗がん剤治療は、手術の前にやる場合と手術後のものと2種類がある
  • がんの「完治」の定義は難しく、「完全寛解」という言葉が使われる
  • 抗がん剤治療の“やめどき”は、難しい
  • 最初からやらないという選択も“やめどき”のひとつである

抗がん剤治療はいつまで続くのか?

「長尾先生、抗がん治療というのは、一体どれくらい続くものなのでしょうか?」

――それも今はなんとも言えませんね。一概には言えないのです。2007年に、〈がん対策基本法〉という法律ができました。この法律によって抗がん剤に関しても全国統一の「標準治療」という目安ができたのですが、実際のところ、専門医の見立てによって抗がん剤の治療期間というのはさまざまなのです。

鈴木さんご自身の体力、副作用の出方ももちろん影響します。がんというのは、とても個性的な病です。人間の顏が、遺伝によって人それぞれ違うのと同じで、がんも遺伝子の異常から起こる病気なわけですから、皆さんの「がんの顔」も違って当たり前なのです。標準治療ができたからといって、どの患者さんにも同じレシピで抗がん剤治療が均一化してしまったら、それこそエラいことになります。

みんな違って、みんないい――金子みすずの言葉じゃないが、それこそが今後のがん治療が目指すところだと私は思いますけれどね。

「私の会社の同僚の女性は、手術前に抗がん剤治療をしていました。私の場合も手術の前から抗がん剤をやらねばならいのでしょうか?」

――その女性は乳がんだったのかな。乳がん患者さんの場合、術前化学療法といって手術前に抗がん剤治療を行うケースが最近は多いですね。手術前に少しでもがんを小さくしましょう、というやり方です。しこりが小さくなれば、乳房温存手術の可能性も高くなりますから。

しかし胃がんの場合、術前化学療法を行うのはまだ稀なケースでしょう。進行胃がんにおいてあきらかに切除不能な場合に、手術前に抗がん剤治療を行って、がんが小さくなったら手術を試みましょうということがあるかもしれません。しかし鈴木さんの場合は、それには当てはまりません。そこまでは進行していない。だけど十中八九、手術後には抗がん剤治療が始まります。

「私の場合、手術がうまくいって全部のがんが取れても抗がん剤治療は避けては通れぬ道なのでしょうか。私がもしも、抗がん剤治療をどうしても嫌だと思ったときは、拒否できますか?」

――拒否は、できます。現に、手術だけして抗がん剤は一切やらない、という患者さんも実際におられます。病院は必死に勧めるでしょう。しかし、強制などできないのです。もちろん私も強制などしません。鈴木さんが悩みに悩み抜いて、どうしても抗がん剤治療をはじめから受けない、受けたくないという結論になったというのであれば、私はそれに見合ったサポートをするのみです。

抗がん剤治療を、はじめから受けない。これも一つの選択肢であると私は思う。第一のやめどきだ。鈴木さんがそう思うのも無理はない。

がんがスッパリ切り取れたならば、そこで終わりではないのかと。取りきれたのならばそれは、「完治した」ということだろうと。しかし実際は、手術が成功した(スッパリ取れた)というのはあくまでも「(目で見える部分のがんは)スッパリ取れました」という意味である。

がん手術において、すべてのがん細胞を取りきるということは、困難なこと。人間の体内、こと細胞というミクロの世界は不思議なほど宇宙によく似ている。私はフラクタル(相似形)という言葉が好きだ。フラクタル理論で世の中を見ると、今までと少し違って見えてくる。まさに細胞と宇宙はフラクタルの関係、一人一人の体内の中に広大かつ複雑な細胞が無限に広がっているのだ。

この宇宙の、太陽系外の惑星の数は未だ不明で、数千個とも数億個ともいわれている。一方、人間ひとりの細胞は、60兆個から出来ている。この60兆個の細胞が日々生まれ変わっていく。その生まれ変わりの過程で起きた遺伝子細胞のエラーが“がんの源”だと言われている。

個々の命の神秘性は、大きな宇宙の神秘性と重なる。細胞を診る顕微鏡と天体望遠鏡が同じ形を見ていることだってあるのだ。だから医学は奥が深い。

小さな星が無数に集い、ひとつの星座を形成してはじめて地上からその何万光年の光を確認することができるように、がん細胞という小さな星が、ヒトの体内宇宙において、どこにどのように潜んでいるかはノーベル賞レベルの研究者が何年間手を尽くしても、アメリカが科学大国の威信をかけて何十兆円という国家予算を組んで(それこそ宇宙開発予算と同規模の)、結局未だ解明しきれていない。

1972年に、アメリカは当時のニクソン大統領が「がん戦争宣言」をした。そして今から四半世紀前、ヒトの遺伝子をすべて解読しようという〈ヒトゲノム計画〉なるものが立ち上がり「21世紀までにがんのシステムを解明し、がんを撲滅させる!」と声高らかと宣言したパクス・アメリカーナのあの言葉は、今やお伽(とぎ)噺(はなし)のように耳に残っているのみだ。

私はまだあの頃、朝も夜もないような駆け出しの勤務医だった。バブルの恩恵にもあずかれず、目の前のがん患者さんに上司の言われるままに、死ぬまで抗がん剤を打ち続けていた――どうしてがん患者さんは、最期までこんなに苦しまなきゃあかんのやろ、と日々疑念を持ちながら痩せこけたその腕に抗がん剤を打ち続け、そうか、でも間もなく訪れる新世紀にはきっと、こんなふうにがんで苦しむ患者さんはいなくなるのかと、若くて無知ゆえの妄想を抱いていた。

当時の患者さんで、今でも忘れられない男性がいる。末期の肺がんだった。もう抗がん治療をしたくないと申し出たのに、私の上司がその意見を相手にせず、その晩に病棟のベランダから飛び降りて自死された。

数時間前までその腕に抗がん剤を打っていた患者さんの遺体を、私が検死した。怒りとやりきれなさ、己の無力さに歯ぎしりをしながら彼の亡骸を拭かせていただいた。二十代の頃だ。

思えば、あの出来事があったから私は大病院を飛び出して町医者の道を選んだのかもしれない。そして、全ゲノムが解読されたと20世紀の終わりにアメリカとイギリスが共同宣言をしたらしいが、だから何だったというのだ? がんは世界中で撲滅などしていないではないか! と、21世紀になって早十年以上が過ぎた今、世界の片隅にいる町医者は(愛ではなくて)自分の無知を叫びたくもなる。

医者がいう「がんの完治」とは何を指す?

話を戻そう。

そういうわけで、多くのがんは完治しない。それでも、手術後に体内からがんが一旦見えなくなれば、「よかったですね、がんが消えましたよ」「完治しました、一安心です」と伝える医師が少なくないようだ。

しかし、手術後すぐに「消えました、完治しました」という言葉を使いたがる医師はあまり信用しないほうがいいと思っている。もちろん、精一杯手術を乗り越えた患者さんを少しでも歓喜させてあげたい気持ちはよくわかる。

だが、喜ばせたとたんに間髪入れずに「念のため、抗がん剤治療はやりますよ」と言われて大勢の患者さんは戸惑うはずだ。医師ががんにおいて使う「完治」とは、あくまでも「現段階では、見えるところにがん細胞はない」という意味で使われていることを覚えておいたほうがいい。

「念のため」というのは言い換えれば、「現段階では見つからない場所に、必ずや潜っているはずのがん細胞のため」、という意味なのだから。

がんにおける「完治」とは?

抗がん剤の効果は次のような基準によって判定される。

  1. 完全寛解(CR=コンプリート・レスポンス) 腫瘍がすべて消失し、その状態が4週間以上続いている場合。
  2. 部分寛解(PR=パーシャル・レスポンス) 腫瘍の縮小率が50%以上で、新しい病変の出現が4週間以上ない場合。
  3. 不変(SD=ステイブル・ディジィーズ) 腫瘍の大きさがほとんど変わらない場合(正確には50%以上小さくもならず、25%以上大きくもならない場合)。
  4. 進行(PD=プログレッシブ・ディジィーズ) 腫瘍が25%以上大きくなった場合、もしくは別の場所に新たな腫瘍ができた場合。

以上4段階のうち、1~3までを「治療の効果があった」と医師はみなす。

私は、鈴木さんの目を見つめ、心の準備を促す。

――鈴木さんのケースの場合、術後の抗がん剤治療はほぼ行われます。手術だけで終わることは、まずありえない。抗がん剤治療は、あなたのライフスタイルを変えていくことになります。副作用も少なからずあります。

鈴木さんは、こめかみを手で押さえ、大きくため息をつかれた。

「数カ月? 一年? それとももっとずっと続くんかな。いつまで会社を休まないといけないのでしょうか。先日ね、我が社が数年ぶりに販売する新しい洗濯機のプロジェクトを立ち上げたばかりなんです。私はそのプロジェクトの責任者になっている。今までにないほどに遣り甲斐のある仕事です。サラリーマンとして定年前に一花咲かせられるんじゃないかなってね。

抗がん剤治療が長引いたら、その仕事を手放さねばならないのでしょうか。どう考えても、部下達に迷惑をかけてしまいそうだ」

――仰る通り、場合によっては“ずっと”続くというケースもあるかもしれない。抗がん剤といっても、経口剤(飲み薬)から点滴タイプまでそれぞれあって、何がどれくらい効くのかは、非常に個人差があり、試してみないとわからないのです。

だが昨今は、外来で抗がん剤治療を行うケースが増えています。外来で使える抗がん剤が増えたからなんです。どちらにしても、効かなければ、また別の抗がん剤を提案されることもままあります。

副作用の強い抗がん剤治療の場合は、入院が必要になります。そして、抗がん剤のやめどきというのは、大病院の専門医であればあるほど、よくわからなくなるのですよ。年単位で抗がん剤治療が続くことも珍しいことではない。


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています