《1856》 「抗がん剤のやめどき3」――体重の減少 [未分類]

激ヤセしてヘロヘロになりながらも抗がん剤治療に
通われている人をよく見かけます。

寝たきりになってご飯が食べられなくても、通っている人も。
誰か止めてあげたら、と思ってもなかなか言い出せません。

抗がん剤を止めたら死んでしまう……
患者さんも家族もそう思っているからです。

本当は、そうなったら抗がん剤が命を縮めているのですが。
体重が15%減ったあたりが“やめどき”を考える時だと思います。

【今回のポイント】

  • 抗がん剤の副作用のひとつに体重減少がある
  • 体重減少が15%を超えたら休薬や中止を検討すべき
  • 「抗がん剤の中止=死」ではない

「抗がん剤のやめどき3」――体重の減少

 次に鈴木さんが私のクリニックを訪れたのは、3コース目のTS-1投薬が終わった直後だった。

 9月も半ばになっていた。手術後最初に来られたときに着ていた水色のポロシャツ姿。そこからのぞく腕がやけに骨ばっていた。体重を確認すると、60キロ。手術前の体重から9キロほど減っている。

 挨拶するだけで息を切らしている。自転車でここまで来るのに、二、三度道端で休憩をしたのだという。今までは休憩なしに来られていた。

――今年は、残暑が厳しいですね。鈴木さん、ごはんは食べられていますか。

「夏バテをしたようです。なかなかメシが喉を通らなくてね。胸のあたりがつかえるというか。最近は、くたくたに茹でたそうめんだとか、ところてんだとか、喉越しのいいものばかり食べています。

しかし妻がそれだけだと栄養にならんて怒るんです。先週から青汁の牛乳割りを飲まされていますよ。あれがもう、辟易するほど不味くてね。

それとね、なぜか塩分を前ほど感じられんのです。妻に、もう少し塩を入れてくれ、と頼んでも、今までと何も変えていないというんです。甘さや苦みは分かるのですが、塩っ気がよくわからなくて、よけいに食欲がなくなってしまいました」

 口の中を拝見する。口内炎が相当に悪化していた。唇もひび割れて乾ききった砂壁のようだった。口内炎も、塩気が感じられないという味覚障害も、もちろん抗がん剤による副作用である。こんなに口内がただれていたら、もはや歯磨きをするのさえ苦痛なはずだ。

 また、肌には色素沈着が見られた。末端から徐々に皮膚が黒ずんでいくのである。若い女性の患者さんの場合は、ファンデーションを塗っても隠し切れないと涙ながらに訴えてくる方もいて、いたたまれない気持ちになるが、鈴木さんはこれに関してはあまり気にしてなさそうである。

 同じ副作用でも、その人の性別や年齢によって気になるところは実にさまざまだ。鈴木さんの場合は、塩分が感じられないことが目下の悩みのようである。

――お気持ちはわかりますが、だからといって塩を足すのはよくない。そうめんなら、細かく刻んだ薬味をぎょうさん使ってごまかすとか、くれぐれもお塩には頼らずに。ヨリ子さんと相談して騙し騙し食べてください。腫瘍マーカーの数値はどうですか。

「それが……この前の検査で少し上がってしまったんです。ただAがんセンターの主治医は、血液検査の数値は問題ないからまだまだいけますよ、と言っています。肝臓の数値も悪くはないと」

――そうですか。スタミナをつけてほしいから、今日は栄養剤の点滴をしてお帰りください。ステロイド剤を入れます。Aがんセンターからは、体重の減少については何か言われている?

「いやあ、何も」

 鈴木さんは治療開始から半年足らずで、1割の体重減。これが私のメタボ腹のことならばダイエット成功とほくそ笑むところだが、鈴木さんの場合はそうはいかない。食欲が落ち、体重も減るということは、当然抗がん剤に対する抵抗力も落ちているのだ。

 なぜ、がんになると痩せていくのか? 理由はいくつかある。

  • がん細胞が正常細胞を破壊して、蛋白質を奪うため
  • 慢性炎症、代謝異常によって体内の栄養素が消耗するため
  • 抗がん剤の副作用による食欲低下

 蛋白質は私達の体を作る大切な栄養素。これが足りなくなると免疫細胞が弱り、体内で抗がん剤を解毒する力が落ちてしまう。それに加えて鈴木さんの場合は、胃を3分の2摘出したことによって、そもそも消化吸収機能が低下しているのだ。

 あくまでも、私自身の経験値としてだが、体重が治療開始時よりも15パーセント以上減少した場合は“抗がん剤のやめどき”を一度考えるべき機会であると思う

 しかしAがんセンターの主治医は、鈴木さんのお話ではあまり気にしていない模様。

――これ以上食欲がなくなるようでしたらば、一度抗がん剤治療をお休みされるという手もあると思いますよ。口内炎もつらそうだ。バカにしてはいけません。生きることとは、食べることです。次の機会に一度Aがんセンターの先生と、抗がん剤を休みたいと話し合ったほうがいいかもしれない。

「えっ? しかし私はここまで頑張ってきたんですよ」

――もちろんそれはわかっています。だけど、抗がん剤を一旦やめて、食欲と体重を少し戻して、もう一度新たな気持ちで挑むという考え方もあるんじゃないでしょうか。

抗がん剤治療をやめた途端に、がんが再発、なんてことにならないですか? 私が今、一番恐ろしい言葉は……」

――再発、ですね。わかっています。もし、現時点において一切抗がん剤をやめる気がないというのであれば、今の話は聞かなかったことにしてください。私に「やめろ」と申し上げる権利はないです。だけど、ちょっと休むのも悪くないと思うけれどね。

 鈴木さんは、以前よりも深く皺が刻まれた眉間を大きく動かし、おどけるような表情をしてみせた。眉毛もだいぶ薄くなられて、白いものも混ざっている。

「長尾先生は、私の抗がん剤治療を全面的にバックアップしてくださっていると思っていました。だから実際、頑張れているんだと思います。仕事も以前の7割程度の働き方しかできないが、なんとか新製品のプロジェクトを軌道に乗せられた。

先生の言う通り、Aがんセンターと長尾クリニックの二股をかけていられるから、私は抗がん剤治療によるストレスを大きく軽減できていると思う。

Aがんセンターではね、私はただの番号で呼ばれる存在だ。患者の人生になんてひとかけらの興味もない主治医は、検査のたびにレントゲン写真と数値を見て、二、三言話して終わりだ。そして、次の予約はいつにしますか? と。

目を合わせるのは最初の会釈と、次の予約の確認のときだけです。悪気はないのかもしれないが、患者の私は、修理工場のラインに乗ったポンコツ車のように思えて仕方がないんだ。

しかしここに来れば、自分はただの番号ではなく、家族の関係性までも長尾先生に知ってもらっている“鈴木信夫”という一人の人間に戻れる。修理工場から帰ってきたポンコツ車を、まだあと10万キロは走れますよ、大丈夫でしょうとガソリンを入れてくれ、窓を拭いてもらっているようなものなんです。

その長尾先生から“もう走らんでいい”と言われると、私はどうしていいのか、わからなくなる」

――そうなんですよ。病院が修理工場だとしたら、私はまさにガソリンスタンドの兄ちゃん、いや、オッサンだから店長かな。ガソリンスタンドの店長は、車を修理すること、つまり抗がん剤治療を全うすることが仕事の目的ではなくて、あなたがいかにこれから楽に、人生という道を有意義に走行していけるかをサポートするのが仕事なんです。

おそらく、Aがんセンターの主治医は、「体重が落ちたので一度抗がん剤を休みましょうか」とは言わないはずですよ。治療を選ぶのは、Aがんセンターの主治医でも副主治医の私でもない。いつだって患者さん本人だからです。抗がん剤治療は、医師に言われて受けるものでも、やめるものでもないのです。


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています