《1862》 「長尾先生を許しません」 [未分類]

本人へのがんの告知を、家族が阻止することが時にあります。
本人を想いやっての行動なのですが、日本独自の風習です。

がんという病名や再発したなどの病状を、うっかり本人に
伝えてしまった場合、家族に殴られそうになることさえあります。

また、患者本人の強い希望で在宅医療している末期がんの方を、
子供や配偶者が無理やり入院させることもあります。

インフォームドコンセントとは、医療者と患者本人の納得の関係性ですが、
その前に、家族間でのインフォームドコンセントをとってほしい時がある。

あなたさえ、いなければ……

こうした心の中の叫びを口にしたら、家族に訴えられます。
しかし、家族が親の穏やかな最期を邪魔しているという場合が実に多い。

本人の想いと家族の想いが180度違い、医療者はその狭間で右往左往します
だから、日本の医療問題とは家族の問題と言い換えられると思う時さえあります。

やはり、リビングウイルを文書で書いておくべきでしょう。
これは終末期医療に限らず、抗がん剤治療のやめどきについての希望も含みます。

医療者の立場からすれば、リビングウイルがある患者さんは助かります。
「本人はこう希望されています」と家族に説明できるからです。

詳しく知りたい方は、拙書「平穏死という親孝行」も参考にしてください。
いずれにせよ、毎日が家族との「闘い」です。

【本日のポイント】

  • 本人への病状の説明でさえ、家族の承諾なしにはできない国、ニッポン
  • がんの再発の説明も同様に、烈火のごとく怒る家族もいる
  • 医療者は訴訟回避のため、家族の意見に従う場合が多い
  • しかし、そんな時にリビングウイルがあると、とても助かる

 

長尾先生を許しません

 その翌朝、いの一番に私の診察室を訪れたのはなんと、鈴木夫妻の娘さんだった。

 最後にこの娘さんに会ったときは、まだ高校生だったはずだ。もう10年以上前になるだろうか。いやあ、久しぶりだね……と私が言い終わるのを待たずに、突然、彼女は泣き出した。驚いた看護師が薬剤の瓶を落とした。

「ちょっと! お母さんに何を言うたんですか? 今さら父に“再発した”と言えですって? ひどい。先生になんの権利があってそんなことを勧めるんですか、それを聞きたくて今日は来ました」

 ちょっと、と言いたいのはこっちである。

 ちょっと、鈴木さんちのお嬢さんよ、君がオムツをつけた時分からインフルエンザも喘息も、アトピー性皮膚炎だって俺が治療したんだぜ、君が突然高熱を出して夜中に往診したこともある。それを「ちょっと」とはなんだね?

 ……などと、言えるわけがない。言えたらどんなにスッキリするだろう。

――権利? そんなもん何もありません。だけどお父さんには、本当のことを知る権利があるでしょう。私は町医者として長年のお付き合いがあるあなた方だからこそ、お母さんにそう申し上げただけです。

「だから、それが勝手なことだって言っているの! お父さんはね、がんが治ると信じているんです。私達だって信じています。だから頑張れているんです。どうしてそんなこともわからないの?」

――それじゃあ逆に一つ質問してもいいか。どうしてあなたは、お父さんの本心を訊いたこともないのに、そんなことがわかるんだ?

「えっ? ……それは、家族だからです、当たり前でしょう!」

 すみません、お静かにしてください……と看護師がシーッと小さい子をなだめるように口元で人差し指を立てた。少しだけ、お嬢さんの声が小さくなる。

――だけどね、お嬢さん。がんの再発というのは、もうほぼ完治は望めないということを意味します。お父さんは、どこかで治ると信じているから、つらい副作用に耐えながら抗がん剤治療と闘ってもいます。

再発は、もしかしたら、ご本人にとっては、抗がん剤のやめどきを考える大きなタイミングかもしれません。しかし再発したことをご本人に伝えなければ、信夫さんはやめどきを考えることさえできなくなってしまう。そうは思いませんか。

「それは、先生が他人だから言えるんです。再発だと伝えたら、父はショックで死んでしまうかもしれない。家族だからわかるんです。強そうで弱い人なんです。長尾先生、お願いです。父から何を訊かれても、再発したなんて、絶対に言わないで。もしも、勝手に本当のことを言ったら……私たちは先生を許さない。長年のかかりつけ医だからって、絶対に許しません」

 長尾先生を許しません。長尾先生を訴えます。

 悲しいことにこの二つの言葉に、慣れている。額面通りに受けとる必要はない。本当に訴える人は、黙って弁護士さんのところに駆け込むだろう。

 私にこうした言葉を投げかけてくるのは患者さんご本人ではなく、常に家族である。それが、愛だと思っている。本人に本当のことを伝えずに、人生の大切な選択肢を隠し通すことが愛なのか。こんなおかしな愛に溢れている国は、世界中で日本しかない。

 愛とは、本人が知る権利を奪うことなのか。そしてこの国の医者の立場は驚くほど弱い。現に、「黙っていてくれと言ったのに本当のことを言った」ということでご家族から訴えられた医者を知っている


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています