《1871》 最期の日々をどう過ごすか [未分類]

昨日は東京都医師会長の野中博先生と
人生の終末期について語りあいました。

野中先生は医師会長でありますが、下町の町医者でもあり、
本当に優しい心を持っておられる母校・東京医大の先輩です。

数年前、日本プライマリー連合会という大きな学会が札幌で開かれました。
そこで、総合医のシンポジウムで終末期医療について講演なさいました。

私は最前列で聞いていたのですが、野中先生は看取りの話をしながら
感極まり、なんと泣き出されてしまい、一時講演ができなくなりました。

いろんな偉い先生の話を聞きますが、講演中に自分の患者さんの話をしながら
涙が出て話ができなくなった医師を、私は見たことがありません。

野中先生は昨日、こんなことも言われました。

  • 医者も変わらなくてはならない
  • 医者が変われば町も変わる
  • これからは町造りも医者の仕事

なんと温かく、心強い言葉かと感動しました。
野中先生には「エンドオブライフ・ケア協会」の顧問にご就任いただけることになりました。

 

さて、病院を抜け出して自宅に帰られた鈴木信夫さん(仮名)は、
どんな日々を送られていたのでしょうか。

このあたりになると、私たちは「週単位から日単位に変わる」という言い方をします。
日替わりでいろんなことがおきますが、多くは訪問看護師さんが対応してくれます。

今日は、鈴木さんの日記です。
キーワードを並べておきます。

腹水、ホウカンさん、タッチケア、点滴、
免疫療法、リビングニーズ、麻薬……

どれもとても重要な言葉ばかりです。
鈴木さんの日記から、それぞれの意味を読み取っていただければ幸いです。

最期の日々をどう過ごすか。

 後からわかったことだが、鈴木信夫さんは在宅医療に切り替えてから、手帳に日記形式でメモを残されていた。ここからは、その残された日記を一部抜粋し、紹介していくことにする。

~ 以下、鈴木信夫さんが手帳に記す ~

2012年8月29日 「家に帰る」

蝉の声が頭に響く。これも副作用だろうか。

そういえば昨年の今頃、長尾先生から「死の壁」の話を聞いた。私は今、断末魔の蝉なのか? いや、そんなことはないだろう。まだまだ土の中。あの世への羽化を待つ蝉。

長尾先生に言われた通り、Aがんセンターから脱出した。しかし息子は怒り心頭。あんなヤブ医者やめちまえと長尾先生のことを罵ってばかりだ。しかし私はこれでいい。家に帰ってこられたのだ。プリンとバナナを少しずつ食べる。怠くて痛い。とくに背中が痛い。オキノームという頓服薬もらう。痛み止め。すぐに楽になる。

8月31日 「腹水が抜けてきた」

長尾先生の言った通り、腹水が抜けてきた。ガスがちょっと出て腹が楽になったとたん、食欲がわく。ヨリ子、お中元の残りの素麺でにゅうめんを作る。半分食べる。無花果を柔らかく煮たもの、半分。甘露。

私は今まで、ずっと蒲団派だったが、脱出直後に、ケアマネさんが長尾先生とホウカン(*訪問看護師)さんを呼んで、ケア会議して、介護ベッドを入れてくれた。新品同様。なんでも、介護保険で賄えるらしい。還暦手前なのに介護保険に入れるとは。自分が重病人のようで戸惑ったが、寝てみるとなんとも快適。テレビも見やすい。しかし、背中が痛い。

長尾先生が、外来から処方してくれた飲み薬の麻薬は、当初の4倍量に増えた。そして食欲が落ちたので今週から貼り薬の麻薬に変わった。だいたい効いているが、ときどき刺すような激痛がくる。そのときのために、頓服の即効性麻薬も処方されている。2mlの液体を口に入れると、15分くらいで痛みは嘘のように引いていく。これを1日に2~3回使うことで痛みの問題は自宅でも十分にしのげる。

今日で八月終わり。腹の張りがまだある、というとホウカンさんに浣腸をされる。

9月1日 「やさしいホウカンさん」

在宅医療は、本当はイヤだった。他人が毎日のように我が家に来るなんて誰だってイヤじゃないか。そう思っていた自分が今では嘘のよう。ホウカンさんが優しい。可愛い。天使のように見える。今日もアロマテラピーでマッサージしてくれた。妻じゃこうはいかない。今はたいてい、二人の方が交代。食欲なくとも性欲はあったりするものだ。昨日は2時間つきっきりでいてくれた。病院の看護師とはえらい違い。明日はどっちのホウカンさん来るのか。楽しみ。

ホウカンさん、毎日。ケアマネさん、毎日。長尾先生、週イチ、でも何かあればすぐに駆けつけます、と言ってくれるから心配はない。今日は体温上がらず、温かいものがほしくなり湯豆腐。ポン酢の酢が喉にしみたのでダシ醤油で3口ほど。

長尾先生が、食べたいのなら塩辛いものでももうなんぼでも食べていいよと言ってくれたので、今まで我慢していた大好物の鱈子の切り身を一切れ粥に載せる。旨い。それと昆布のつくだ煮。あのとき脱出せずにIVHでの栄養を病院でしていたら、この味ともオサラバだった。

9月2日 「タッチケア」

長尾先生来る。「脱出させてもらって、どうも」と御礼言う。「脱出脱出、大きい声で言わんといて。また大病院の先生から怒られるわ」と先生笑っている。「もう、腹水はだいぶ減ったな」と腹を何度もなでてくれた。「ホウカンさんから、たくさんさすってもらったらええ。タッチケアといってな、人の手の力はバカにならん」

9月5日 「点滴」

一昨日から食欲わかず、点滴。タキソテールやってから体中ムクミひどく、腕に針が刺さらず。ホウカンさん「抗がん剤やったときのIVHポートから刺して点滴を入れるという手もあるけど、私らが点滴入れるためにこれ使うと、あとでAがんセンターから、勝手に使うなと怒られちゃうんよ」と言う。「かまわない、ここから入れてくれ」とお願いした。

「もう抗がん剤はやらんから」とも言った。しかし、言ったそばから、自問自答する。たしかにタキソテール、びっくりするくらいしんどく、もう自分には無理とも思うが、元気になったら、また抗がん剤やるかもしれない。自分がわからない。死期もわからない。死なんような気もするし、死ぬような気もするし、だけど痛みさえ取れれば、仕事には復帰する。

9月8日 「免疫療法」

娘・伊吹がくる。東京から虎やのようかんと、免疫療法のパンフレットを持ってきた。試してみないか、という。なんでも、抗がん剤治療が効かなくなった人に、劇的に効く方法だという。余命1カ月の人が2年生きたケースもあると娘は説明する。家族の心配は嬉しいが、どうしたものか。奇跡の治療?

9月10日 「リビング・ニーズ」

長尾先生が来てくれたので、昨日娘が持ち出した免疫療法について訊く。先生、渋い顏? どうしてもやりたいなら止めないが、200万円程度かかるよと言われる。

リビング・ニーズ知ってる? とも。私は知らなかったが、妻は知っていた。なんでも、死んだあとではなく、余命半年と宣告されたときにお金が入るタイプの生命保険のことらしい。そんな保険に自分も申し込んでいたとは、ありがたいやら皮肉やら。

長尾先生からの提案。「鈴木さんの余命はわからない。余命なんて当たった試しがない。あと1カ月と私が余命宣告した97歳のおばあちゃんが、2年経っても元気だ。だけど、リビング・ニーズ、もらっとけばいい」と。

私の余命はわからない? 半年後も生きている? とりあえず、1000万円貰うのは悪くないか。なんなら娘の結婚資金に回してもいいだろうし。しかし、長尾先生の表情と言葉から察するに、免疫療法はおススメではないらしい。

9月12日 「麻薬の量を増やす」

朝、粥と鱈子一切れ。茄子の煮物。バナナ1口。食べてウトウトしていたが、全身が痛くて目が覚める。ちょうどホウカンさん、来たので、今日が一番痛いと直訴。マッサージをしようとしてくれるが、ホウカンさんの手が触れただけで痛い。骨が砕けそうな痛み。長尾先生、駆けつける。麻薬の量を増やそうと言う。ちょうど息子が来ていて、父さんモルヒネ打っていたのかと驚く。

痛みというのは、すごく個人差があるらしい。「痛みは我慢せんでいい」は先生の口癖。風邪薬や降圧剤は個人差があってもせいぜい2倍量だが、麻薬の個人差は10倍、100倍と違うらしい。麻薬を少しずつ増やしていき、ちょうどいい量を探してくれるという。夜になって麻薬が効いてきた。生きた心地する。家に麻薬を置いておいていいなんて、不思議なものだ。


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています