《1884》 最期の瞬間までやる 【やめどき10】 [未分類]

死ぬその日まで抗がん剤治療をしていた患者さんを
何人も見てきました。

そんなアホな!

と思われるかもしれませんが、そんな人は珍しくありません。
しかしなぜ、そうなるのでしょうか?

それは、その日に死ぬことがハッキリと分からなかったからです。
死ぬと分かっていたら、おそらく何日か前にやめていたでしょう。

しかし、まさかその日が死ぬ日だと分からないので死ぬまでやっていた。

もっと酷い話をすると、もう死んでいるのに抗がん剤の点滴が
ポタポタ落ちているのを見たことがあります。

その医者にもその病院にも、“やめどき”という概念がないのでしょう。
最期まで抗がん剤を流すことが最高の医療である、と信じている医者もいる。

これもまた、そんなアホな! と言われるかもしれません。

しかし拙書「平穏死・10の条件」がベストセラーになった時、
私のクリニックに怒鳴りこんできたある病院長さんがいました。

「お前は最期まで抗がん剤をやるのが医者の務めであることも分からんのか!」

その病院長さんだけではありませんでした。
同じようなことをある医師会長さん、あるセンター長さんからも言われました。

ですから“やめどき”という概念は、医学の世界ではまだ誰も言っていないのです。
ある講演会で、司会の先生から「新しい概念を提唱」と紹介されたこともあります。

最期の最期まで闘いたい、という患者さんもおられるかもしれません。
死んでから分かりましたが、鈴木信夫さんも実はそんなひとりだったのです。

今日まで“やめどき”について長々と書いてきましたが、
重複して書いた箇所も多く、深くお詫び申し上げます。

これで拙書「抗がん剤・10のやめどき」(ブックマン社)をベースにした
“やめどき”講座は、ひとまず終了といたします。

最後にひとつだけ覚えておいてください。
今後の医療界のキーワードにしてほしい言葉です。

「いつやめるの?」
「今かな?」

「今かな?」の「?」がとても大切です。
患者さんの自己決定は危うい場合があるからです。

しかし“やめどき”の“言いだしっぺ”は患者さん自身であってほしい。
その暫定的決定を、医師や看護師たちが十分に支援するのが医療です。

今日まで熱心に読んでいただき、ありがとうございました。

抗がん剤のやめどき その10 ―― 死ぬときまで

往生際が悪い、と言われる職種が三つある。医者と坊主と教師だ。たしかに私の経験でも、この三つの職種の終末期医療に関わると苦労することが多い。

医者や坊主は、他人の死には慣れているが、自分自身の病気や死となると話は全く別となる。普通の人以上に慌てふためき、右往左往する。医者自身が手紙を持ってセカンドオピニオンを聞きに来た時には正直、ぞっとする。そうした医者は理屈ばかりで情が欠けている場合が多いので、いくら話し合っても堂々巡りになりがちだ。

さて、ここまで長々と「抗がん剤のやめどき」について述べてきた。抗がん剤は延命治療の道具にすぎない。いい悪いではなく、やめどきを考えることが大切である――本書のモチーフはそういうことであるが、現実にはそう単純にはいかない。

まず人間の心は常に揺れ動く。「もうこの辺で止めようかな」と思っても、次の瞬間には「いや、もうちょっと頑張ればなんとかなるかもしれない」と思ったりもする。あるいは家族にそう勧められる。

抗がん剤の教科書には「末期になって体重が減って歩くのもおぼつかなければ、抗がん剤治療を中止すべきである」とちゃんと書いてある。しかし現実には、そうなっても抗がん剤治療の継続を希望される方が結構おられる。

なかには、死ぬ前日までがん拠点病院に抗がん剤を打ちにいっている人がいる。さらには、死ぬ当日まで打ちにいった人もいた。さらに病室を覗くと、もう死んでいるのに、抗がん剤の点滴がポタポタと落ちている光景を見たことがある。本当の話だ。

なぜ、死ぬ直前まで抗がん剤をするのか? 

答えは簡単。死ぬと思っていなかったからである。患者さんもご家族も、あとから振り返れば「まさか今日、死ぬと思っていなかったから、昨日まで打っていただけ」となる。

「病院の担当医が『もう来なくてもいいよ』と言ってくれなかったから、結果的に死ぬ前日まで抗がん剤をやりました」と後から嘆くご家族もいる。一方、病院の担当医はこう答える。「患者さんが来られたから、打っていただけだ。せっかく来たのに断ったら困るだろうから」と。

たしかに、病院の担当医から「もう止めにしよう」とは切り出しにくいし、患者や家族から「先生、私、もう止めます」と言うにも相当な勇気が要るだろう。医師と患者の両方が、お互いに「抗がん剤のやめ時は、相手が言い出すだろう」と思いながら最期の日を迎えることが少なくない。

患者さん本人やご家族がそれでもいい、というのならそれでいい。しかし「ああ、やっぱりもう少し早くやめておけばよかったな」と後悔するのであれば、本書を活用して、あらかじめ抗がん剤のやめどきをシミュレーションしておくべきであろう。

最期までやめない、という生き方もある

さて、鈴木さんは、サードラインの途中で腹水が溜まり、自らの意思で1年半近くにも及ぶ抗がん剤治療を中止した……かのように、見えた。ご家族にも私にもそう見えた。しかし現実には、最期の最期まで、隠し持っていたTS-1をどうも隠れて飲んでいたようだ。

どの程度、飲んだのかは知らない。時々、お守り代わりに飲んだのだろうか。そして私が死亡診断をした時、喉の奥に溶けかけたTS-1のカプセルが残っていた。

これは、実際の私の経験をもとに書いたものだ。その人は、胃がんと食道がんの患者さんだった。食道の上部までがんが広がっていたが、亡くなってから、なんだろう? と取り出してみたら、TS-1だった。

その患者さんはなんとしても生きたい、回復したい、という想いをTS-1に賭けたのだろう。喉の奥に光るTS‐1を取りだした時、複雑な想いがした。なぜか神々しく見えて、悲しかった。

さいごになった。抗がん剤の止めどき・その10は「死ぬときまで」である。ふざけているわけではない。これは生き方の問題である。

やめないのに、やめどき、って変じゃない?

たしかに変だ。しかし人によっては、最期まで闘うことが、やめどきなのだ。意地悪な言い方をするならば、死を見つめていないからそうなる、とも言えよう。

しかし、誰もが死を受容できるなんて思想は、私は傲慢だと思うのは、先に書いた通りである。世の中、実にいろんな人間がいる。とある胃ろうをめぐるシンポジウムでは、「自己決定しない、という決定も尊重すべきだ」と主張した医師もいた(禅問答のようだ!)。

いずれにせよ、「最期までやる」という“やめどき”も存在することを知ってほしい。そういう生き方もあるということを、私は患者さんから教えてもらったのだ。

《このシリーズ終了》


【「抗がん剤 10のやめどき」(ブックマン社)からの転載】

 アピタル編集部で一部手を加えています