《1955》 「平穏死」を口にするがん患者はいない [未分類]

「もし自分ががんになったら平穏死したい」――みなさん、そう言われます。
そう叫びながら、飛び込んで来られるがん患者さんも時々おられます。

しかし現実に末期がんになり、ガリガリにやせ細り、歩くこともままならぬ
状態になれば、日々の生活に精一杯なのが現実のがん患者さんの療養生活。

在宅患者さんは死期が迫っていても、その日一日を生きることに必死です。
家族は、やせ細る姿を見て「もっと点滴を!」と叫ぶことが大半なのです。

これまで1000人を超える末期がん患者さんを診てきて
「私はここで平穏死したい」みたいなことを言われたのは数人です。

末期がんの患者さんの99%は「平穏死」なんて言葉を使いません。
もちろん家族も「死」という文字が入った単語を絶対に口にしません。

看取った後も、それが「平穏死」だったことにに気がつく人はまずいません。
少し時間が経ってから、「ああ、あれは平穏死だったのかなあ」と思う程度。

「平穏死」という言葉は、どこか『上から目線』のように思えて仕方ありません。
「平穏」という形容詞はあくまで客観表現であり、主観的な言葉ではない。

日々、平穏死の現場にいますが、ご家族に「平穏死」という言葉を
使う機会は、私自身もあまりありません。

「がんを放置したら平穏死できる」と思っている人がおられますが間違い。
放置しても治療しても死ぬ時は死ぬし、要は最期に枯れるか否かの問題。

がんの痛みや苦しみは、がんを治療しようとがんを放置しようと変わらない、
ということを知っておいてください。

在宅現場では、「平穏死」という言葉はほとんど使いません。
むしろ超高齢者ならば「大往生」と言うと凄く喜ばれます。

問題は「がんの治療期」と「平穏死」の関係です。
要は、治療の“やめどき”と“終末期”の境目はどこか、ということ。

これはかなりの難問で、その人の生き方や死生観によって異なってきます。
絶対的なものではなく相対的なもので、「哲学」と言ったほうがいいかも。

そして“がんもどき”や“放置療法”という造語をいくら振り回してみても、
いちばん肝心な“やめどき”と“終末期”の境目が明確になるわけではありません。

いずれにせよ、「平穏死」という言葉を口にする末期がん患者さんは居ません。
私はそれでいいし人間の最期とはそのようなものだと知っているつもりです。

参考文献) 「長尾先生、近藤誠理論のどこが間違っているのですか?」(ブックマン社)