《1956》 黒田裕子さんとのヨコハマ [未分類]

第23回日本ホスピス在宅ケア研究会(日ホス)の全国大会に
参加するため、昨夜から横浜に来ています。

大阪は蒸し暑かったけど、横浜は涼しいし、霧雨が降ってきました。
前夜の理事会のあと、ちょっとした異国情緒を味わっています。

今日の午後、第二会場で「長尾和宏の死の授業」という講演をします。
なにを話そうかなあ、なんて今頃になって、一生懸命に考えています。

振り返れば、1年前の神戸大会の実行委員長は黒田裕子さんでした。
黒田さんは、阪神大震災の時、病院を飛び出し災害看護師になった人。

東北の震災でも、気仙沼の被災者に寄り添い続けて、私も呼ばれました。
昨年のお盆過ぎ、黒田さんといつものように神戸で遅くまで飲んでいました。

しかしその数日後に末期の肝臓がんと判明し、
わずか1カ月後に故郷の緩和ケア病棟で旅立たれました。

ショックでした。
そりゃ、ひと月前まで一緒に飲んで語っていた人が居なくなったのですから。

ほぼピンピンコロリでした。
日ホスの会に来ると、いまだに副理事長だった黒田さんの姿を探しています。

10年前に黒田さんと出会わなかったら、私はこの学会に来ることもなかった。
在宅ホスピスや緩和ケアや災害医療に深く関わることもなかったでしょう。

ということで、今日は「黒田さんの死を考える」という話をしたい。
黒田さんが枯れていく様子がテレビでばっちり放送されていました。

体力が低下することを「気枯れ」(けがれ)といいます。
黒田さんは、1カ月という短期間にみるみる枯れていきました。

そもそも「気枯れ」た人をお世話することが、ケアの原点だと思います。
周囲が見守らないと生きていけないのですから、誰かがお世話をするのです。

その延長線上に「死」があるのですが、それを「穢れ」と考えるようになった。

「穢れ」の語源は「気枯れ」。
「穢れ」は決して「不浄」ではないのに、いつからか忌み嫌うようになりました。

「穢れ」=「不浄」と考えるのは、間違いだと思います。
「不浄とされた死」は、どこか見えないところに「隔離」されるようになりました。

病院に入院させて、自分たちは死に関わりたくないという家族が激増しました。
今朝も寝かかった5時半、看取り寸前の家族から「入院させてくれ!」という電話が鳴った。

その結果、「多死社会であるのに死を見たことがない日本人」が増え続けています。
8割の人が病院で死ぬ日本国民です。

そう考えると、黒田さんは自らの死に方を我々に晒してくれました。
何らかのメッセージを残してくれたような気がしてなりません。

黒田さんはまだ生きています。
今日も、朝イチからヨコハマで声を上げてボランティアをしています。

ケアの原点とは何か。
今日の講演は、そんな話から始めてみようと思います。