《1958》 がんは放置しても、患者は放置しない [未分類]

8月も今日で終わり。
そろそろ暑さが少し和らぐのではと、期待しています。

昨夜は横浜での研究会の余韻に浸っていました。
私は講演に座長に、当院からは4題の発表もありました。

コメディカルや介護職や市民と医療職が一体となった、日本では珍しい
研究会に2日間も身を置いていると、様々な方といろんな話をします。

特にがんの話になると、最期まで抗がん剤に苦しめられた話が出ます。
おそらく大病院の主治医には全く話せない話が、この場では話される。

市民の井戸端会議は、あながち間違っていないこともたくさんあります。
しかし大病院の医師はエビデンスによるガイドライン医療しか行いません。

医学の世界では「科学的エビデンス」が幅をきかせています。
エビデンスとは統計学的に「有意差」があるという意味です。

100%ではないが95%正しそうであれば「有意差」があると言います。
しかしいくら「有意差」があると言っても、例外もあるという意味です。

ですから、エビデンスがある=絶対的に正しい、とはなりません。
特に高齢者や虚弱者では、「例外」に入ってしまう人も当然おられる。

その「例外」を、単なる「例外」として切り捨てるのか、
いや「例外」こそ大切に扱わないと、と考えるかでは、向いている方向が180度違う。

市民も一緒になって運営される日本ホスピス・在宅ケア研究会は後者の視点です。
おそらく日本で唯一かもしれませんが、エビデンスより「物語」を優先する集まり。

一つひとつのがんの話を聞いていると、みんな違う「物語」があるので、
そこでは「エビデンス」という言葉は、似会わない気がしてならない。

エビデンスだけでは、医学という科学だけのこと。
「物語」と合わせて、はじめて医療となります。

科学的エビデンスに基づいた医療方針を「ガイドライン」といいますが、
終末期にさしかかった人を前にすると、大きな違和感を覚える言葉です。

「死」から「生」を考える医学教育は台湾にはありますが、日本では私くらい。
一方、本研究会は「終末期」から「生」を考える研究会のように感じました。

人間とがんとの闘いは太古の昔からあり、未だに解決しません。
医学が発達して、完治や延命はできますが、100%死にます。

死を前にした人には、エビデンスやガイドラインは無意味であると思いますが
大病院のお医者さんの中には「死ぬまでガイドラインを守れ」という人もいる。

私には到底信じられない世界ですが、「それで満足」という人が居るのも事実。
要は自分の死生観を理解してくれる医者を見つけておかないと絶対に後悔する。

  • がんは、終末期が近くなれば放置したほうがいい
  • 終末期以降は過剰な延命治療は控えたほうがいい
  • 延命と縮命の分水嶺を意識しないと酷い目にあう
  • 抗がん剤の“やめどき”を間違うと、後悔が残る
  • 平穏死とは、治療の“やめどき”を自己決定すること

実は、5つとも同じことを言っているのです。
慶応大学の近藤誠氏がいう「がん放置療法」とは、実は終末期の人へのメッセージです。

しかし間違ってはいけないのは、終末期以降のがんは放置したほうがいいが、
患者は放置してはいけない、充分な緩和医療が必須、ということです。

がんの放置と
患者の放置は、まったく意味が違います。

私もがんの放置はいくらでもありますが、患者を放置することは絶対ありません。
10分3万円のセカンドオピニオンで患者を突き放すような行為は理解できない。

一方、がんは放置しないが、患者の尊厳は放置する大病院の現状も理解できない。
つまり「どっちもどっちやなあ……」と。

桜木町からの帰りの地下鉄の中で、そんなことを考えていました。
この研究会に入ったからこそ、そんな視点を持つことができました。

参考文献) 「長尾先生、近藤誠理論のどこが間違っているのですか?」(ブックマン社)