《1986》 最期まで舞台に立てた理由 [未分類]

「長尾先生、末期がんでも亡くなる1週間前まで
 舞台に立ったり、仕事ができるものですか?」

川島さんの訃報を知った何人かの人から、そう聞かれました。

「もちろん、そんな人はおられます。
 ただし、いくつかの共通点があります」とお答えました。

その共通点とは

  1. 抗がん剤をやっていない、またはやっていても末期になる前に止める
  2. 食べられなくなって痩せても、高カロリー輸液をやらないこと
  3. 充分な緩和医療を受けていること

その1。抗がん剤は、やる/やらない、ではなく、“やめどき”"が大切!

そして抗がん剤の“やめどき”とは、がんの種類や年齢や体力によって、
また患者さんの死生観によっても大きく違ってくるので、
医師が「ここでやめるべき」とは一概には言えません。
あくまでも患者さんご自身が決めるもの。

ですから、もっとリテラシーを持ってがん治療に挑んでほしいと言う意味で
2年前に私は「抗がん剤10の『やめどき』」という本を書いたのですが、
あれから2年たって、ようやく「やめどき」という言葉が徐々に浸透してきているようです。

その拙書に書いた第1番目の「やめどき」とは
川島さんと同様、「迷った挙句、最初からやらない」です。

効果が期待できるがんではやってもいい、あるいは積極的に
やったほうがいい場合もありますが、いつか必ず効かなくなる時が来ます。
だから“やめどき”が大切で、それを間違うと、抗がん剤で命を縮めてしまします。

その2。川島さんのあの痩せ方は、私から診ると「がん性悪液質」という状態でした。
治療の副作用によって体力が奪われて痩せた、というわけではないと考えました。

末期がんで口から食べられなくなった時、高カロリー輸液をする医師がいますが
私は反対です。命を縮めるどころか、咳や痰や腹水で大きな苦痛をもたらします。
誤解を恐れずに言えば、ベッドの上で「溺死」しているような方もいます。

動物でも植物でも、本来の最期というのは自然に枯れるようにして命を終えるのです。
それがいちばん、苦しまずに旅立てる。

川島さんがブログで最後に掲載された病床の姿を撮ったお写真は、
私から見たら、“順調に枯れて”おられました。

高カロリー輸液は行っていなかったようです。
さらにあの写真は、抗がん剤もしていないお顔に見えました。

そしてその3。高カロリー輸液に代表されるように、なぜ、最期の最期まで過剰な延命治療が
行われる場合があるのか? それは、現代人が「待つ」ことができなくなっているからです。

ゆっくりとその時を待つことが怖くて不安、もしくはまだまだ何か打つ手はあるはずと
多くを望み過ぎてしまう――それが自然に枯れて死ぬことが難しくなった現代医療の功罪です。

何も医療者だけの問題ではありません。ご本人もご家族も、
枯れていくことを“待つ”ことができるか……? これがなかなか難しいのです。

“待つ”ためには、充分な緩和医療が必要です。

肉体的な痛みを取る麻薬はもちろん、精神的痛みや魂の痛みへの対応が大切です。
川島さんは、民間療法を受けておられて、それが心の支えになっていたそうです。
それを批難する人がいるようですが、筋違いです。

そして、もちろん旦那さんの献身的な愛情こそが、最高の緩和ケアだったことは言うまでもありません。
川島さんの旦那さんの記者会見の様子を、たまたま往診中のテレビで拝見し、
思わず涙してしまいました。

「ごめんね…」「私こそごめんね…」

こんな優しいやりとりが最期の会話であるとは、
なんと素敵なご夫婦でしょうか。

優しさにあふれた言葉が、最高のモルヒネ効果をもたらしたと思います。

以上の3つの条件を満たした時に、川島さんのように、最期まで仕事ができます。
排泄もほぼ自立して過ごせるのですが、あまり知られていないようですね。

川島さんのように、亡くなる1~2週間前まで、外に出てなんらかの仕事を
されていた方は、私の患者さんの中にも何人かおられ、決して珍しくありません。

  • 末期がんでも2週間前まで仕事ができる
  • 外出できる、旅行できる、人前に出られる
  • 何かしら食べ物を口にできる、少量のアルコールも飲める
  • 亡くなる直前まで笑顔で愛する人に「ありがとう」と言える

これが、私が提唱する「平穏死」の姿です。

私には、当たり前ですが、きっと多くの皆さまにとっては知らないことかも。
実は、まだ多くの医療スタッフも知らないことなのです。

参考文献) 「長尾先生、近藤誠理論のどこが間違っているのですか?」(ブックマン社)